僕の記憶が確かなうちに母との思い出を後世のためにも記録しておく。
母、山崎草苑は山崎家の別荘のあった藤沢は鵠沼で生まれた。祖母のお腹の中にいる時に富士山に登ったらしい。その後は自宅の神田佐久間町と鵠沼を戦況に応じて行き来していたようだ。たまたま東京大空襲時は鵠沼にいたが、いよいよということで2歳の時に母の父のツテで会津若松市に疎開し、以後ずっと市内に住んでいた。この辺りの動きは同じく鵠沼に疎開し、その後会津に疎開した書家の篠田桃紅の記述を読み、祖母から聞いていた話と描写が同じだったので驚いた。
個性的な母は幼い頃よくいじめにあっていたようで、母の妹がいじめっ子をやっつけに行ってたとよく聞かされた。おとなしい幼少期だったようで、ずっとものづくりや絵描きをしていたのだろう。なぜか高校では美術部ではなく強制的に化学部に入れさせられて、おっかなびっくり悲鳴を上げていたとのこと(笑)
母の父は戦後の混乱期に大変苦労したようで38歳でこの世を去り、祖母が東京に出稼ぎに来ていたようだ。母は美大に行きたかったが、家計がそれを許さなかった。
個性が強かったからなのか、身体が弱かったからなのかわからないが、就職も長らく勤めた先は無かったようだ。ただ事務職で10年以上は過ごしており、当時の女性の事務はちょっとしたセクハラは当たり前だった反面、お寿司屋さんに友人と入ると大抵向こうの人が全部出してくれるとかプラスとマイナスの世界があったと話してくれた。
息子がいうのも変だがスタイルよく特に足が長かったので、仕事先の朝礼で立位体前屈では、僕同様母も身体が硬かったようで、手が足先にくっつかなかったのをよく笑われていたので、「私は足が長いから付かないのよ」と切り替えしたら翌日から全員手が足に付かなくなったと笑って話をしていたのもよく覚えている。
気分にムラもあり、よく衝突していたが、それはお花を生けるときには必要なエネルギーにも転換される。タイプの試験では、午前中の3級は落ちて午後の2級は受かったと豪語していたが、だいぶひどいムラだなと今書いていてツッコミを入れている。
とても個性的な母でそれが個性的だと認識できるまでには相当な時間が掛かった。ただ、その個性を、あの閉鎖的な街・会津若松の、しかも昭和後半で受け入れてくれる人たちが少なからずいた。もしかしたら、その頃の方が多様性を受け入れてくれる余裕があったのかもしれない。
きっと生きづらい人生だっただろう。そういう中でも精力的に草月のいけばなを会津で抵抗勢力に負けること無く展開していったことに心から尊敬をする。
母は草月流の資格でいうと1級師範常任総務という上から3番目まで取得していた。試験のある顧問は受けなかった。どうやら顧問や理事を取得すると支部の役員にさせられるというのが理由だったらしい。地方はそういう上位資格を持つ先生が少ないからだろう。
山崎草苑の師匠は故・山口草楽先生だ。当時、山口先生は東中野に教室兼自宅を構えられていて、1度だけ5歳位のころにお邪魔してお会いしたことがあり、おにぎりをごちそうになった記憶がある。母は先生から厳しい指導を受けていたようだ。だからこそ、草楽ismを強く継承したのだろう。
草月という季節ごとに発刊される本があり、その300号に草楽先生の作品が1つ掲載されている。不思議なことに、母から好きなお花はどれ?と言われて「これ」と言ったら草楽先生のだったことがあった。だから僕にも全部ではないが、受け継がれているのは間違いない。
母はお茶もやっていた。裏千家で師範は取っていたようだが、僕はからっきしお茶は興味が無かったから何にも覚えていない(笑)ただ、母が偉い先生方の前でお点前を披露する際、緊張しすぎて手が震えて身体が固まってしまい、それを見た偉い先生が側にいらして母の手をぎゅって握って「いつも通りを見たい、大丈夫」と励まされたのがキッカケで震えはぴたっと止まり、いつも通りできて褒められたと話していた。それ以来、何事にも平常心で臨めるようになったと言っていた。ただ、オリンピックなどのTV試合は「見てられない!」と言いながらキャーキャー騒いで見ていたので、今考えてみるとなんのこっちゃという思いも無くはない(笑)
假屋崎省吾先生と母との関係も話さないわけいかない。假屋崎先生の最初の作品集「花夢中」の後ろの方には母と一緒に製作した作品が4枚掲載されている。いずれも会津若松市内の芦ノ牧温泉にある丸峰観光ホテルでいけたものだ。
假屋崎先生が草月流の本部講師時代に福島県の支部研究会があり、何人かの草月流本部の先生がいらっしゃって、母のグループに假屋崎先生が付いたのがお付き合いの始まりである。その後も、支部研究会で假屋崎先生がいらっしゃったときは談笑したり写真を撮ったりしていて、若かりし頃の假屋崎先生と母が一緒に写った写真は大切に僕のアルバムに仕舞ってある。
月日は流れ2008年から假屋崎先生の元で僕は草月流を学んでいるのだから、不思議なものだ。残念ながら僕が草月流の最上位の「理事」を取得する前に母は逝ってしまったが、母は假屋崎先生の元で理事を取ったらご挨拶に行かないとと言っていた。
その時には母の分も込めて心から御礼申し上げないといけないな...。
※2023年春に鎌倉にて御礼してまいりました。
母はいけばな教室と喫茶店「ブルージュ」を会津若松市内の通称・末広町という飲み屋街で営んでいた。当時の末広町は会津若松市内でも最大級規模の歓楽街であった。子守唄は近所の音漏れするカラオケなくらいだった(笑)
僕が幼い頃は1階が喫茶店、2階が教室だった。90年代後半から喫茶店を縮小して1階で教室を行うようになった。
生徒さんは9割女性、1割男性だった。喫茶店も一緒だったので、終わった後はお茶をして帰る方が多かった。母に身の上話や噂話(笑)をする人も多く、母は情報通だったが口はとても固かった。
生け込みにもよく行ったというか行かされた。先程紹介した会津若松市内の芦ノ牧温泉にある丸峰観光ホテル、そして東山温泉の原瀧と今昔亭だ。母は全盛期には週に2日、3棟のホテルの玄関・ロビー・部屋・廊下の花を100箇所以上生けていた。生ける速度は超人的だった。母から生け込みの時に一番口酸っぱく言われていたことは「見る人の視線を考えなさい」だ。これは今でも一番大切に思っている。そして早く速く生けるだ。これは假屋崎先生もいつもおっしゃっている。お花を生業とするには早く生けられなければ仕事にならないからだ。だから僕もかなり早く生ける方だと思っている。
そして母同様に個性的な僕を母の生徒さんは沢山可愛がってくれた。
本当に楽しい思い出ばかりだ。
母との最期は意外な終わり方だった。
2019年4月4日、用事があり会津に帰省していたので、母の東山温泉の原瀧・今昔亭の生け込みに同行した。いつも通り母の生徒さん3人も一緒だ。母からはかすみ草の入れるタイミングを指導された。この生け込みが生涯最後のお稽古となった。
翌日、母は風邪を引いて調子が悪そうだったが、週明けに病院に行くと言って、珍しく握手をして実家を出た。
その翌日、たまたま知人から会津に泊まりたいけど良いホテルないかなということで、母に原瀧の担当の方の連絡先を教えてもらうべく電話をした。か細い声で教えてもらい、電話の最後に「ありがとう」と言った。これが僕らの最期の会話となった。正常な思考が保たれている意識がある中で、意味は違えど、最期にありがとうと伝えられたことは、かけがえのない思い出となったし、その知人には心から感謝している。
そして最後に。
先述した丸峰観光ホテルには母の生けた作品が未だに飾られている(2020年現在)。いけばなは刹那の美であり、後世にその立体造形物を遺すことはほぼ不可能であるから、平面である写真でしかもう楽しむことはできない。それがだ。母が丸峰観光ホテルのホテルの生け込みの仕事を2013-2014年頃だろうか、卒業することになり、大浴場の湯上がりロビーにあるガラスで仕切られた空間に流木や枯れ枝で生け込みをしていたのだ。ここは假屋崎先生の「花夢中」にも掲載されている場所だ。
母が亡くなった翌年初春に丸峰観光ホテルに泊まった。一杯やって気持ちよく温泉に入って汗をかいて、いつも通りに湯上がりロビーにある無料の麦茶を飲みつつ雪あかりの中庭を見ながらソファに腰掛けて一休みしようと思いながら、ふと左のそのガラスで仕切られた空間に目をやった。
その空間には、見事に流木と枯れ枝で構成されたシンプルだけどこれ程力強い動と静、うねりと重厚さを兼ね揃えた確かな作品がいけてあった。久しぶりに心に衝撃が走った。
「一体、一体なんだこれは。えっ、会津にこの空間を生かし、こんな見事な作品を作れる人がいたの?」
一瞬にして汗は引き、麦茶の入った紙コップを滑り落としそうになるのを辛うじて抑えつつ、作品に1歩1歩近寄る...。
「あれ...待てよ?......そういえば...丸峰を卒業したよって電話よこした時に生徒さんと2人でオブジェ作って帰ってきたって言ってたな...」
ヤラレタ(笑)
そう、母の遺したある種の手品に、僕はまんまと引っかかったのである。きっと母は「ギャハー」と毎度の高笑いをしていたに違いない。
珠玉ともいえる不思議な38年に渡った親子関係、お互い我儘で衝突は多かったけど、楽しかった。
ありがとう。
2020.1.6 丸峰観光ホテル
※数本の枯れ枝は取れて床に落ちていた
母、山崎草苑は山崎家の別荘のあった藤沢は鵠沼で生まれた。祖母のお腹の中にいる時に富士山に登ったらしい。その後は自宅の神田佐久間町と鵠沼を戦況に応じて行き来していたようだ。たまたま東京大空襲時は鵠沼にいたが、いよいよということで2歳の時に母の父のツテで会津若松市に疎開し、以後ずっと市内に住んでいた。この辺りの動きは同じく鵠沼に疎開し、その後会津に疎開した書家の篠田桃紅の記述を読み、祖母から聞いていた話と描写が同じだったので驚いた。
個性的な母は幼い頃よくいじめにあっていたようで、母の妹がいじめっ子をやっつけに行ってたとよく聞かされた。おとなしい幼少期だったようで、ずっとものづくりや絵描きをしていたのだろう。なぜか高校では美術部ではなく強制的に化学部に入れさせられて、おっかなびっくり悲鳴を上げていたとのこと(笑)
母の父は戦後の混乱期に大変苦労したようで38歳でこの世を去り、祖母が東京に出稼ぎに来ていたようだ。母は美大に行きたかったが、家計がそれを許さなかった。
個性が強かったからなのか、身体が弱かったからなのかわからないが、就職も長らく勤めた先は無かったようだ。ただ事務職で10年以上は過ごしており、当時の女性の事務はちょっとしたセクハラは当たり前だった反面、お寿司屋さんに友人と入ると大抵向こうの人が全部出してくれるとかプラスとマイナスの世界があったと話してくれた。
息子がいうのも変だがスタイルよく特に足が長かったので、仕事先の朝礼で立位体前屈では、僕同様母も身体が硬かったようで、手が足先にくっつかなかったのをよく笑われていたので、「私は足が長いから付かないのよ」と切り替えしたら翌日から全員手が足に付かなくなったと笑って話をしていたのもよく覚えている。
気分にムラもあり、よく衝突していたが、それはお花を生けるときには必要なエネルギーにも転換される。タイプの試験では、午前中の3級は落ちて午後の2級は受かったと豪語していたが、だいぶひどいムラだなと今書いていてツッコミを入れている。
とても個性的な母でそれが個性的だと認識できるまでには相当な時間が掛かった。ただ、その個性を、あの閉鎖的な街・会津若松の、しかも昭和後半で受け入れてくれる人たちが少なからずいた。もしかしたら、その頃の方が多様性を受け入れてくれる余裕があったのかもしれない。
きっと生きづらい人生だっただろう。そういう中でも精力的に草月のいけばなを会津で抵抗勢力に負けること無く展開していったことに心から尊敬をする。
母は草月流の資格でいうと1級師範常任総務という上から3番目まで取得していた。試験のある顧問は受けなかった。どうやら顧問や理事を取得すると支部の役員にさせられるというのが理由だったらしい。地方はそういう上位資格を持つ先生が少ないからだろう。
山崎草苑の師匠は故・山口草楽先生だ。当時、山口先生は東中野に教室兼自宅を構えられていて、1度だけ5歳位のころにお邪魔してお会いしたことがあり、おにぎりをごちそうになった記憶がある。母は先生から厳しい指導を受けていたようだ。だからこそ、草楽ismを強く継承したのだろう。
草月という季節ごとに発刊される本があり、その300号に草楽先生の作品が1つ掲載されている。不思議なことに、母から好きなお花はどれ?と言われて「これ」と言ったら草楽先生のだったことがあった。だから僕にも全部ではないが、受け継がれているのは間違いない。
母はお茶もやっていた。裏千家で師範は取っていたようだが、僕はからっきしお茶は興味が無かったから何にも覚えていない(笑)ただ、母が偉い先生方の前でお点前を披露する際、緊張しすぎて手が震えて身体が固まってしまい、それを見た偉い先生が側にいらして母の手をぎゅって握って「いつも通りを見たい、大丈夫」と励まされたのがキッカケで震えはぴたっと止まり、いつも通りできて褒められたと話していた。それ以来、何事にも平常心で臨めるようになったと言っていた。ただ、オリンピックなどのTV試合は「見てられない!」と言いながらキャーキャー騒いで見ていたので、今考えてみるとなんのこっちゃという思いも無くはない(笑)
假屋崎省吾先生と母との関係も話さないわけいかない。假屋崎先生の最初の作品集「花夢中」の後ろの方には母と一緒に製作した作品が4枚掲載されている。いずれも会津若松市内の芦ノ牧温泉にある丸峰観光ホテルでいけたものだ。
假屋崎先生が草月流の本部講師時代に福島県の支部研究会があり、何人かの草月流本部の先生がいらっしゃって、母のグループに假屋崎先生が付いたのがお付き合いの始まりである。その後も、支部研究会で假屋崎先生がいらっしゃったときは談笑したり写真を撮ったりしていて、若かりし頃の假屋崎先生と母が一緒に写った写真は大切に僕のアルバムに仕舞ってある。
月日は流れ2008年から假屋崎先生の元で僕は草月流を学んでいるのだから、不思議なものだ。残念ながら僕が草月流の最上位の「理事」を取得する前に母は逝ってしまったが、母は假屋崎先生の元で理事を取ったらご挨拶に行かないとと言っていた。
その時には母の分も込めて心から御礼申し上げないといけないな...。
※2023年春に鎌倉にて御礼してまいりました。
母はいけばな教室と喫茶店「ブルージュ」を会津若松市内の通称・末広町という飲み屋街で営んでいた。当時の末広町は会津若松市内でも最大級規模の歓楽街であった。子守唄は近所の音漏れするカラオケなくらいだった(笑)
僕が幼い頃は1階が喫茶店、2階が教室だった。90年代後半から喫茶店を縮小して1階で教室を行うようになった。
生徒さんは9割女性、1割男性だった。喫茶店も一緒だったので、終わった後はお茶をして帰る方が多かった。母に身の上話や噂話(笑)をする人も多く、母は情報通だったが口はとても固かった。
生け込みにもよく行ったというか行かされた。先程紹介した会津若松市内の芦ノ牧温泉にある丸峰観光ホテル、そして東山温泉の原瀧と今昔亭だ。母は全盛期には週に2日、3棟のホテルの玄関・ロビー・部屋・廊下の花を100箇所以上生けていた。生ける速度は超人的だった。母から生け込みの時に一番口酸っぱく言われていたことは「見る人の視線を考えなさい」だ。これは今でも一番大切に思っている。そして早く速く生けるだ。これは假屋崎先生もいつもおっしゃっている。お花を生業とするには早く生けられなければ仕事にならないからだ。だから僕もかなり早く生ける方だと思っている。
そして母同様に個性的な僕を母の生徒さんは沢山可愛がってくれた。
本当に楽しい思い出ばかりだ。
母との最期は意外な終わり方だった。
2019年4月4日、用事があり会津に帰省していたので、母の東山温泉の原瀧・今昔亭の生け込みに同行した。いつも通り母の生徒さん3人も一緒だ。母からはかすみ草の入れるタイミングを指導された。この生け込みが生涯最後のお稽古となった。
翌日、母は風邪を引いて調子が悪そうだったが、週明けに病院に行くと言って、珍しく握手をして実家を出た。
その翌日、たまたま知人から会津に泊まりたいけど良いホテルないかなということで、母に原瀧の担当の方の連絡先を教えてもらうべく電話をした。か細い声で教えてもらい、電話の最後に「ありがとう」と言った。これが僕らの最期の会話となった。正常な思考が保たれている意識がある中で、意味は違えど、最期にありがとうと伝えられたことは、かけがえのない思い出となったし、その知人には心から感謝している。
そして最後に。
先述した丸峰観光ホテルには母の生けた作品が未だに飾られている(2020年現在)。いけばなは刹那の美であり、後世にその立体造形物を遺すことはほぼ不可能であるから、平面である写真でしかもう楽しむことはできない。それがだ。母が丸峰観光ホテルのホテルの生け込みの仕事を2013-2014年頃だろうか、卒業することになり、大浴場の湯上がりロビーにあるガラスで仕切られた空間に流木や枯れ枝で生け込みをしていたのだ。ここは假屋崎先生の「花夢中」にも掲載されている場所だ。
母が亡くなった翌年初春に丸峰観光ホテルに泊まった。一杯やって気持ちよく温泉に入って汗をかいて、いつも通りに湯上がりロビーにある無料の麦茶を飲みつつ雪あかりの中庭を見ながらソファに腰掛けて一休みしようと思いながら、ふと左のそのガラスで仕切られた空間に目をやった。
その空間には、見事に流木と枯れ枝で構成されたシンプルだけどこれ程力強い動と静、うねりと重厚さを兼ね揃えた確かな作品がいけてあった。久しぶりに心に衝撃が走った。
「一体、一体なんだこれは。えっ、会津にこの空間を生かし、こんな見事な作品を作れる人がいたの?」
一瞬にして汗は引き、麦茶の入った紙コップを滑り落としそうになるのを辛うじて抑えつつ、作品に1歩1歩近寄る...。
「あれ...待てよ?......そういえば...丸峰を卒業したよって電話よこした時に生徒さんと2人でオブジェ作って帰ってきたって言ってたな...」
ヤラレタ(笑)
そう、母の遺したある種の手品に、僕はまんまと引っかかったのである。きっと母は「ギャハー」と毎度の高笑いをしていたに違いない。
珠玉ともいえる不思議な38年に渡った親子関係、お互い我儘で衝突は多かったけど、楽しかった。
ありがとう。
2020.1.6 丸峰観光ホテル
※数本の枯れ枝は取れて床に落ちていた